Stories Vol.3|「僕が生きて証明したい」── “子どもが孤立しない社会” 施設出身の若者が挑む、社会を変えるNPOの挑戦 前編
さまざまな家庭の境遇にいる子どもや若者に、「自分にもできる」と思ってほしい。
神戸市兵庫区を拠点に、そんな思いで走り続ける青年がいる。
NPO法人「心の絆」代表理事・川村功(カワムラ イサオ)さんだ。
子どもが孤立しない居場所づくりをテーマに、
子ども食堂や地域イベント、親子向けの企画を仕掛けている川村さんに、これまでの歩みと、これからの挑戦について聞いた。
“家庭”を知らないまま育った幼少期
── まずは、自己紹介をお願いします。
川村さん:
「はい。NPO法人『心の絆』の理事長をしています。
普段は保育学校で学びながら、子ども食堂や地域イベント、親子向けの企画など、地域資源や高校、児童館と連携した活動をしています」
── 保育の道を選んだ理由は?
川村さん:
「僕、児童養護施設の出身なんです。
小5から高3まで、高知県の児童養護施設で暮らしていました。
だから、いつか“あの頃の自分みたいな子”を支えられる大人になりたいと思って、保育を学ぼうと決めました」
── 施設に入る前の生活は、どんな様子だったのでしょう。
川村さん:
「父親のことは知らなくて、気づいたら高知の田舎で祖父母に育てられていました。
ただ、祖父からの虐待は日常で……殴られたり、“しばかれる”のが普通になっていました」
── 当時は、それを“虐待”だと認識できていなかった?
川村さん:
「そうですね。子どもだったし、他の家庭と比べることも知らなかったので。
学校に何かを訴える、という発想もなかったです」

── そこから生活が大きく変わる出来事があったんですよね。
川村さん:
「小学2年の2学期に、おばあちゃんが突然“失踪”したんです。
車から飛び降りて、そのままいなくなってしまって。
しばらくして、ある日、パトカーが5台くらい一気に小学校の前に来て。
そのまま保護されて、高知市内に住んでいた母と兄のところに連れて行かれて、
そこから1年くらい、母・兄・僕の3人暮らしが始まりました。」
── やっと家族3人で暮らせるようになった、はずだった。
川村さん:
「その時期は、兄とも喧嘩ばかりで、悪さもしていて……
母もだんだん鬱のような状態になっていきました」
── そして、運命の日が来る。
川村さん:
「小3の2学期の運動会の日です。
放課後クラブみたいな、学校併設の児童の預かりから、一人で家に帰って。
ドアを開けたら、母が倒れていて……すでに亡くなっていました。
僕が、第一発見者でした」
── その後は、祖母・兄・イサオさんの3人暮らしに戻るのですね。
川村さん:
「はい。でも祖母も“もう手に負えない”という状態になってしまって……。
そこから、児童養護施設に入ることになりました」
施設生活と“ヤンキー時代”
── 施設での生活は、どんな日々でしたか?
川村さん:
「先輩にヤンキーも多くて、いじめにも遭って……
本当にその時は“もう死にたい”と思うくらいしんどかったです。
途中から吹っ切れて、
『どうせなら、もうやったろう』
みたいに思うようになって、だんだん荒れていきました」
── どんなふうに荒れていたんですか?
川村さん:
「喧嘩、タバコ、深夜徘徊……。
中学のときには、先生を殴って警察沙汰になって、家庭裁判所にも行きました。

── それでも、そこで終わらなかった。
川村さん:
「中3くらいのときに、ふと自分の人生を振り返って
『このままじゃ、あかんな』って思て、そこから勉強も始めて、なんとか全日制の工業高校に進学しました」
── 高校生活はどうでしたか?
川村さん:
「バスケ部に入って、そこでも頑張ってたんですけど……
また暴力事件を起こしてしまって、停学になったりもしました。
18〜20歳──“死”と向き合い続けた介護の日々
それが“挑戦する理由”になった。
── 高校卒業後の2年間は、障害者福祉・老人介護の現場で働いていたんですよね。
川村さん:
「はい。高知県の社会福祉法人に就職して、
2年間、障害者福祉と老人介護の現場で働いていました。その時にボクシングと出会ったりもしました。」
── 印象に残っている出来事はありますか?
川村さん:
「昨日まで普通に話していた利用者さんが、次の日出勤したら亡くなっていたり。
事故や脳梗塞で、後天的に障害を持たれた方などに出会ったりしました。
きっと、本人ですら“こんな未来を想像してなかった”って思うんです。それって、僕らにもいつ起こってもおかしくないじゃないですか。」
── お母さんのこととも重なったのですね。
川村さん:
「そうですね。小3のときに母が突然亡くなったこともあって、
“死”や“事故”が、すごく身近なものに感じられるようになりました。
18〜20歳のその2年間で、“人は本当に、明日どうなるか分からない”
っていうことを、肌で感じました。
だからこそ『いつ死んでも後悔しないように、生きよう』
って思うようになったんです。
それが、今でも僕の“挑戦する理由”の根っこにあります」
ボクシングとの出会い──殴られても前に出る
──「プロボクサーライセンスを取得している」と伺いました。きっかけは何だったんですか?
川村さん:
「児童養護施設で暮らしているときに、プロレスラー(タイガーマスク)や、ウエイトリフティングの三宅選手が来てくれて、講演や交流をしてくれたんです。
それを見て、いつか自分も、ああいうふうに“子どもたちに希望を与えられる存在”になりたいなと思いました」
──テレビで見ていたボクサーの存在も大きかったとか。
川村さん:
「はい。テレビで内藤大助選手や亀田選手の試合を見ていて、特に内藤選手にすごく惹かれました。
いじめられていた過去があっても、それでもボクシングを続けて、殴られても殴られても前に出ていく。その姿が本当にかっこよくて。
同じ児童養護施設出身の坂本選手の存在も大きかったです。
自分と同じような背景を持って、プロの世界で輝いている姿を見て憧れを持ちました」
──実際にジムでボクシングを始めてみて、どうでしたか?
川村さん:
「リングの上は1対1の戦いなんですけど、そこに上がるまでの過程って、実はチーム戦なんですよね。
同じジムの仲間と一緒に練習して、切磋琢磨し合って、トレーナーや周りの大人にも支えられて。
そういう人間関係の中で、たくさん学んだと思います」

20〜25歳──海上自衛隊、海曹まで昇格そして新たな挑戦へ
── そこから、海上自衛隊に入る決断をします。なぜ自衛隊だったのでしょう?
川村さん:
「その頃、“一回、高知から出てみたい”“もっと広い世界を見てみたい”と思っていて。
海上自衛隊なら、部隊によっては海外にも行けると聞いたので、“視野を広げられるかもしれない”と思って入隊しました。
実際に配属されたのは潜水艦部隊で、海外任務はなかったんですけどね(笑)」
── 潜水艦のどんな仕事を?
川村さん:
「潜水艦のエンジン関係の担当でした。
乗り物なので、資格や試験も多くて。
勉強も訓練もハードでしたけど、その分やりがいもありました」
── そんな中で、海曹まで昇格されています。
川村さん:
「自衛隊には“士”と“曹”という階級があって、海曹になれたら“一人前”という感覚があるんです。
『これでとりあえず、自衛隊で食べていけるな』という一つの到達点に来たな、と思いました」

── それでも、そこから辞める選択をした。
川村さん:
「はい。一つの目標を達成したので、今度は自分のやりたいことをやりたいと思いました。
好奇心も強くて、あんまり危険性とかリスクとか、振り返らずにも、やりたいことは全部やりたい性格なので(笑)。
この道を選んだのは、2年間、障害者支援と老人介護を経験していたのがベースになっていると思います。



